座禅をして無の境地になると過去の記憶が走馬灯のように!

考え方

京都で修業してみました

今、京都に来ています。今日は京都のしょうりん寺で座禅の体験をしてきました。少林寺ではありません。勝林寺です。

この日の座禅体験には、子ども2人を含んで10人程度が参加していました。15分の座禅を2回行います。

座禅とは無になること

座禅中は頭を空っぽにします。無になります。でもそれは難しいので、「吐いて吸う、呼吸に集中するように」と住職に言われました。呼吸に集中する。といってもそれも難しい。ついついいろんなことを考えてしまいます。私は煩悩だらけです。

1回目の座禅が終わって住職が言いました。「呼吸に集中しようとしてもいろんなことが頭に浮かぶと思います。頭に浮かぶだけならいいのです。深追いして考えずに流しましょう」

いろんなことが頭に浮かぶのは自然なことのようです。でも深追いしないようにすると、どんどんいろんなものが頭に浮かぶようになりました。

人生の記憶が走馬灯のように

人は死に至るときに今までの人生の記憶が走馬灯のように浮かんでくるそうです。死んだ人はみんなそう言ってます(いや、言ってないって!)。臨死体験をした人がそういったのでしょうね。

それには理由があるのだな、と思いました。死ぬときになると、深く考えることなんてできないでしょう。何かが頭に浮かんでも深追いせずに流す。だからどんどん過去の記憶にあることが浮かんでくるようになる。

きっとそうだ。と私は座禅をすることで納得しました。

ちょっと修行をしてみたあべっかんでした。

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